文学を学んでいたことのある私は、俗に零度のエクリチュールといわれる、一見アクがなさそうなのにどこか不思議な文体について深く考え、また、実践しようとしていた時期がありました。
媒体が写真になってもそれは変わりません。手垢にまみれたパターンはあまり踏襲しないようにする—構図は(画角から来る錯覚 etc.を利用しつつ)さりげなくおかしく。ピントは(一点に合わせるなら)意外な位置に。そうしてできあがったimagesは、うまくすれば夢と現をつなぐ扉になってくれるはず…
この方針自体は決して間違っていないと思うのですが、構図にせよピントにせよ、この工夫は残念なことに、ときに誤解を生みます。あけすけな作為は抑えている/さりげないだけに単なる失敗だと思われる危険性があるのです。
私のHPのGalleryのところにも少し書きましたが、今、写真家の横木安良夫氏が電子書籍写真集出版企画 "Crossroad Project" の実行と並行してワークショップを行っています。私も今までに2度、ご指導頂きました。「何か生っぽさがやっぱり、あるんだよね〜。夢現の雰囲気を出すならもう少し色やコントラストを調整して…」と横木氏。写真のretouch自体はデジタル全盛の今、当たり前のことなのですが、手本を示してくださる横木氏の前できあがってゆく夢のようなimageを見ていると、氏のテクニックに感動したのはもちろんですが、ここまで「夢」なニュアンスを付加してやっと、自分だけでなく他者の眼にも「夢現」と映るレヴェルになるのだなぁということにも驚きを禁じ得ませんでした。
そういえば、以前論文を書いていたときに某フランス人の先生がおっしゃっていました。「読者は何も知らないと思って書くのがコツ。くどすぎると思うくらいくどく説明する、それが親切というものなんだよ」。当時は半信半疑でしたが、それは確かに一理あるのかもしれません。
伝えるって、難しいなぁ。