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Miho Yamazaki

「知らない言葉の花の名前 記憶にない風景 わたしの指には読めない本」


久しぶりに文章を書こうと思った、批評までは行かない、思い浮かんだことの数珠つなぎを。

横浜市民ギャラリーあざみ野に長島有里枝の展示を観に行った。彼女と私は似ている部分も多いと思う。彼女はフェミニストで (確かご本人もそうおっしゃっていた)、私は、フェミニストと公言はしていないしそのつもりもないが、そうなのだろう。自分が所与の枠の収まりきらないと感じたとき、人は何らかの策を講じざるを得なくなる。枠に収まっているふりをするか、枠の正当性に異議を申し立てるか。私は「ふり」ができるほど器用ではないから、巧まずして「申し立て」ることになってしまう。そしてそうした振る舞いはおそらく、巷でフェミニスト的だといわれるものと重なっている。

長島は、写真を自分だけの密やかな楽しみに留めていた祖母と、服飾の道に進もうとしたが家庭に入ることを事実上余儀無くされた母をずっと見つめてきた。私もまた、実は自身の能力でそれなりの稼ぎを得ながらも、家制度の残滓の中でひたすらに「素敵な奥様」を全うした祖母とともにいた。美しい人だった。彼女についてここでそれ以上のことを語ることはできない。第一、残念ながら私自身、彼女のことをそれほど知っているわけではない。私が知っている彼女の本名と異なる通名で彼女が呼ばれていたことさえ、彼女の葬儀の日に初めて知り、彼女が戦時中に日本軍の施設で働いていたことは、今朝初めて聞いた。私は「よき祖母」、ひいては「よき母」の枠の外の彼女を知らない、私の母は、きっと少し知っている、知ってはいるが、分かっているかどうかは分からない、母は母の父同様にあっけらかんとして素直な、信じやすいところがあって、それはおそらく祖母と相容れないところだ。長島は彼女の母について「心から良いと信じることを反射的に実行する人」だと語り、自分自身については「自分の行動の意味をゆっくり考えたい人間」と評する。私の母と私もきっとそんなふうに違うのだろう、だからもしかすると私は祖母のことを母よりよく分かり得たかもしれない、もし私がもっと色々な話を祖母から聞けるほどの歳になるまで祖母が生きていれば。

長島の祖母は彼女が何歳になるまで生きていたのだろうか? いずれにせよ私は、彼女の祖母が大切にしていた植物とその名前を彼女がたどっていく心持ちが分かる、気がする。彼女もまた、「そのとき」につかみきれなかった、「その人」の奥底に潜むものをゆっくりと時間をかけて掬い出そうとしているのだろう、たとえ知らなくても分かるといえるために、imagesが現像液の中で少しずつ浮かび上がってくるのを無言で見つめ続けながら。知るためには言葉での説明が必要で、けれど説明されたとしても分かるとは限らない、分かるためには見るか触れるかしなければならない、そうした局面は絶対にあって、きっと、だから長島は写真撮影と執筆を行き来していて、私は言葉も視覚表現も手放すことができない。

長島は、自身の家族、の主に女性たちの歴史をたどり、エッセイを書いた、これからもきっと書くだろう、私にはおそらくかなわないこと。知らなすぎて書けないことや書くことが許されないと思われることがたくさんあるから。それらはすでに起こっているにもかかわらず、予感のように私の前に浮かび上がってくるだろう、そして予感のようなそれらは、長島が執筆したエッセイの登場人物——点字は読めない——の手が、点字に訳されたその文章の自らが描かれている一節を触っているのを、長島自らが撮影した写真と、きっと同じ姿をしている。読めなくて、知りえなくて、見えていて、分かる。

長島の写真シリーズ「名札付きの植物」には、植物にピントが合っているものと名札にピントが合っているものとどちらともいえないところにピントが合っているものがある。そこに現れているのはおそらく、「知っている」と「分かっている」の間を漂う意識の揺らぎだ。

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