写真家がインスタレーション作家になるとこうなるのか…
artではなくcraft系のギャラリーで写真家の都築響一氏がかなり会期の長い展示を行なっている。正直、最初は行くかどうか迷っていたところもあった。伊兵衛賞受賞者であり、東京都写真美術館に作品が所蔵されてもいるということで、技量は相当に違いないが、私の中では写真作家というよりも半分商業カメラマンのような位置づけだった。世代的にも、私が参考にするには少々上すぎる気がしていた。
実際の展示は様々な要素が詰め込まれていて、そこから滲み出ているある種の情念に対して隔世の感を抱かざるを得なかったのは事実だが、全体としては充分にアクチュアリティーのあるものとなっていた。言葉の使い方の探求や写真の記録性についての考察が、そこでは確かに行われていた。
言葉だが、畳を敷き詰められた床のあちこちに置かれた文章/テクストの断片が、まずは紙片存在として慎ましやかに目を引く。インスタレーションは写真だけから成っているのではなく、それらと昔の東北地方 (日本) の衣服の数々とを核に、その他いくつかの要素を絡め足した総体としてある。テクスト断片は、そんな空間に、つまり、垂直に垂らされたり畳の上に水平に広げられたりしている布と、壁に沿わされたり宙に吊り下げられたりしている紙 (写真) の迷路の中に、落ち葉さながら横たわっている。辺りには現地で録音されたと思われる虫の鳴き声が響いていて、東北の秋はこんなふうだったのだろうと思う。テクストは、写真に被せられた「キャプション」(説明書き) ではない。それは展示空間を織りなす「糸」のひとつだ。テクストの語源が織物を意味する語であるように。
展示されている服は麻の織物をキルトのように貼り重ねていったものだ。四角いパターンを少しずつずらして繰り返し足していく。テクストの言葉もまた、それらと同じように少しずつずらされながら繰り返され、足されていく :
「現代風に言えば、ラグでありシーツ。2坪ほどの寝所に稲藁を敷きつめ、その上にこのボドコを敷いて家族一緒に眠った。ボドコは女性がお産をするときにも使用した。
お産の前には大釜で煮沸してシラミを落とした」。
「着古した麻の着物を土台にして、麻布や木綿布を何重にも重ねて縫い合わせてある。
ボドコは女性がお産の時の敷き布にも使用した。
何代にも渡り大事にされた布の力を生まれてくる子供の力に、と願いを託していた」。
布の迷路をさまよっているとこんなふうにずらされて繰り返された言葉が出てくるので、白昼にデジャヴュ夢を見ている気がしてくる。だがそれは夢ではない。一日として同じ日はないけれど春夏秋冬は毎年巡ってくる。当時のかの地の人々の暮らしもきっと、差異を伴う繰り返しの積み重ねだった。その中で、必要に応じて継ぎ足される麻布の重なりが最後には温かな衣となるように、人々の実人生は織り上げられていったのだろう。究極的には今でも、個人にとっての時間とは、幾分かはそうしたものだ。この展示はもしかすると、情報で覆い尽くされた騒がしい日々がもたらす酩酊状態から抜け出して現実に帰るための夢なのかもしれない。
そういえば、テクストの書かれた紙片も布切れと同じ矩形をしていた。
次に、写真の記録性について。今の時代、写真はどうにでもできる。合成も変形も色調整も。もはや写「真」ではない。文字通りphoto (光) graphy (画)。それでも忘れてはならないのは、写真は被写体となるこの世界がなくては存在し得ないということだ。展示されている写真作品では、現代人がモデルを務めている。展示されているものと同じ布/衣をまとい、雪の中に佇んでいる。都築氏はおそらく商業的にも成功しているのだろうと思わせる、幻想的なimagesの数々。だがその隣には写真に写っているのと明らかに同一の衣がある。それは夢ではない。証拠写真という言葉があるが、これはその逆で、物が写真の中の光景のリアリティを担保している。
こうしてリアリティを証し立てられたことで、写真は現実に立脚したものとしての強さを取り戻す。それと同時に、上述したテクストの数々が、今度は写真のリアリティによって肉声のように生々しい響きを取り戻す。おそらく都築氏が書くなり編集するなりしたものなのだが、それが無数の民の声のコーラスとして立ち現れてくるから不思議だ。
ところで、写真と衣をこう並べてみると妙なのは、布が撮られたときから布も写真データ (←おそらくデジタル写真だと思われるので) も同じだけ月日を重ねていることになり、それはこれからも絶対に変わらない事実なのだが、布と写真データでは経年変化のスピードが違うということだ。この布が朽ちる頃になってもデジタルデータはさしたる損壊もないまま、いつでも美しいimagesとして立ち現れてくれるのだろうか。それとも意外と短命だろうか—データ形式を変えて保存し直すなどのメンテナンスをしないままに放っておけば形式が古すぎて読み取れないといったことになるのだろうか。分からない。いずれにせよ最近では、Facebookでつながっていてタイムラインにもアクセスできる状態にある方がいつの間にか亡くなっていることがときどきある。壮大な遺影となってしまったFacebook上の写真の数々を目の当たりにして、私は写真というものに畏怖の感情を抱かざるを得ない。それは現実の影に過ぎないはずなのに、現実が死んでも生きている。
これらの衣が写真に撮られたのも、ひとつにはもうそれが新たに作られることがないからだ。写真の中の衣はおそらく大分先まで生きるだろう。