top of page
  • Miho Yamazaki

齋藤陽道「写訳 春と修羅」


齋藤陽道さんという写真家の方がいらっしゃいます。

氏は以前、映像作家の百瀬文氏と共にグループ展を開催していました。百瀬作品を目当てにギャラリーに行ったところ齋藤氏の作品の方にはまってしまい、けれど結局それ以後齋藤氏の生プリント(「なまぷりんと」!)は拝見できずにいました。

さて、私は最近、赤城憲雄氏の『東北学/忘れられた東北』(上の写真に写っている本)を読んでいます。そうすると、宮澤賢治の数々の物語は、実はファンタスティックどころか非常にリアルなものなのかもしれないと思えてくる。たとえば、(少なくとも文明開化以前の)マタギの、ある意味特権的な在り方をこの本を通じて知ることで、宮澤の『なめとこ山の熊』が東北の人々の心象風景を誠実に、忠実に描いたものに感じられてくるのです。

そんな訳で宮澤が気になっていた私は、その作品『春と修羅』の遺伝子を受け継いでいるらしい写真作品「写訳 春と修羅」をcheckしないわけには行かなくなりました。しかも作者はあの齋藤陽道なのです。個展は3月27日…

展示されていた齋藤氏の作品が宮澤的かどうかは、正直、私には分かりません。それよりも「齋藤さんだなぁ」という感じの方が強かった。

齋藤氏の作品を特徴付けているもののひとつに

届きそうで届かない感じ

があると私自身は思っています。あるいは見えそうで見えない感じ/奥歯に物が挟まった感じといってもよいでしょうか。

これは私の写真に私が加工を施して作った画像なので、これを齋藤氏の作品と引き較べてどうこう申し上げるのは正直気が引けますが、それでもこの画像はやはり齋藤氏の作品の端的な説明になっていると思います。

人によっては息苦しさを覚えるかもしれませんが、私は氏のそんなやり方が好きです。

ちなみに、この個展は展示であると同時に相互参加型のイヴェントでもありました。並べられた写真の中には齋藤氏が銀色のペンで言葉を描いたものが何枚かあり、来場者は全ての写真に金色のペンで言葉を書いてよいことになっています。

私も、もちろん書きました。

私の言葉はどうにも映像的なようでした。逆に、他の方々の言葉の多くはどうにも「言葉」で、そのことにとてもびっくりしました。

そもそも正解などないはずなのにびっくりしてしまったのです。

氏の作品を実際にご覧になれば、何人かの方はもしかするとこの「びっくり」に共感してくださるかもしれません。またの機会にぜひ齋藤氏の作品と向かい合ってみてください。

閲覧数:52回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page