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Miho Yamazaki

東京の中の山梨_borderlands


3月—苦手な事務手続きの山を片づけたところでぐったりしてしまい、やる気がどうにも起きなかった3月(…といいつつ何のかの動いていた気はしますが 笑)。4月からは真人間に戻る! と自分に対して宣言したうえで、昨日、大散歩をしにあきる野市→檜原村を散策してきました。

とはいっても檜原観光の王道「数馬の里」探訪は時間の都合で断念。荷田子(にたご)と人里(へんぼり)を回ってよしとしました。

荷田子は龍珠院なるお寺の枝垂れ桜で、人里はバス停を覆う枝垂れ桜で(密かに)有名とのことなのでお花見を兼ねて行ってきたのですが、桜には少し早かった模様。それでも野には色とりどりの花が咲き乱れていました。

(これはほんの一部です。さらに写真をご覧になりたい方はこちらまでいらしてください : https://www.flickr.com/photos/107595272@N04/albums/72157666491308041 )

ふらふらと歩いていると1人のマダムとすれ違いました「龍珠院の桜は… まだ駄目、全然咲いてない」とのことでしたが、その近くの神社「神明社」の脇の桜が見事だったそうなので、そちらに行ってみることに(このblog記事topの写真にも姿を覗かせているものです)。素朴な雰囲気の鳥居を抜けるとひっそりとした佇まいの社があり、その右奥、少し行ったところに…

幹の真っ直ぐなすらりとした杉などの木々の間に、それらと全く引けを取らない樹高の桜がそびえていました。ソメイヨシノよりも紅みの強い色でヤマザクラかとも思いましたが、見る限りでは葉が出ていないのでそうではないのでしょう。

精霊のようでした。

そのすぐ下の小さな畑では、おそらく夫婦だと思われる2人の方々が野菜の世話をしていました。長閑な話し声が響いていましたが、その広がり、消え入りの繰り返しが、むしろ静けさを前景化していました(cf.「古池や…」)。

こうした話し声にしても鳥の鳴き声にしても、山里は音や声の響き方が市街地とは全く違うのが面白いし、また、旅情を誘います。

次に人里。

あまりにも読みにくい地名なのでcountryな地域にしばしば残っているアイヌ語由来の地名なのかとも思いましたが、事実はむしろ逆である可能性が強いようです。この集落は、古墳時代に渡来人系の集団が近畿地方から移住してきてできたそうで、

モンゴル語の「フン」(人間の意) + 新羅語「ボル」(集落の意)

が訛ってこのような地名になったのではないかといわれています。東国は近畿や北九州をはじめとする西日本に較べ大陸系の影響は薄いような気がしていたので少し驚いたのですが、よく考えてみると西武秩父線沿線の高麗も同じような経緯でできた集落でした(これが奥秩父まで行くと、本当にdeep 東, not 渡来系な文化の香りが圧倒的になってくるのですが)。

農耕文化圏出身のはずの渡来人たちがなぜこんなにも平野部の少ない山間の地に流れ着き、住み着いたのか… 何とも不思議な話です。もしかすると戦に負けて土地を追われた百済の人々が泣く泣く山に身を隠したのかもしれません。

とにかく、今はただ静かな山里です。

東京都市部からの交通の便の悪さゆえ、五日市(東京都あきる野市)の市街地に出るより山梨の都市部まで出る方が早いということで、地元の人は山梨へ買い物に行くそうです。さらに、2014年2月の豪雪の折にはこの地への車両アクセス自体が一時的にほぼ不可能になったとか。住民の方々は買い物にさえ出られず、村役場の人々が救援物資を配って回ったそうです。

そんなこの地域の食べ物事情ですが、炭水化物系の栽培はいまだ米ではなく、ジャガイモなどの芋類が中心。先日ご紹介した『東北学』の赤坂氏の話ではありませんが、米の国Japanなど日本でも一部の地域のことに過ぎなかったのだと改めて認識させられました。確かに、たとえば北関東の各地には「子供の頃はうどんなどの小麦系麺類が主食だったよ」とおっしゃる中高年の方はいらっしゃいます。でも、それが今でも続いているなんて—物流が悪く食糧自給率の高そうなこの地で芋類を主に栽培しているというのは、そういうことでしょう(※)。

また、1990年代にはまだ熊狩りをすることもあったようで、熊を捌いてみんなで分け合った、という話も地元の方から伺いました。

大変な暮らしです。でも住民の方々は皆仲がよさそうで、大都市にはもはやない共同体精神のようなものを感じました。人里は過疎の村ですが、孤独死はきっと少ないでしょう。

こんな幸せの形もある、と本当に思いました。それと同時に、私にはここの人々のような暮らしに必要な知恵などないのだ、とも思いました。私は結局都市を拠点に生きてゆくのでしょう(理想はノマド暮らしですが 笑)。

現在、この界隈ではゲストハウス「へんぼり堂」を拠点に紅葉の植樹がなされています。民間の団体(NGO)が行なっているようです。一方で、この里のそこここに見られる桜の樹は公の手によってこの地に根を下ろしました。昭和43年に村が実施した「花いっぱい運動」の一環で、1世帯3本ずつ、計4,000本の桜が配布されたのだそうです。そのうちの1株がこれ。あと半月もすればきっと見頃を迎えるはずです。

通常、枝垂れ桜は早めに花開くものが多いのですが、これは残念ながらそうではない様子。そういえば、京都の円山公園の枝垂れ桜も、山地ではないのに割に開花時期が遅かったような。

いずれ、満開手前くらいの頃に愛しみに行きたいものです…

ていうか行く!

こうして私の休暇は、事実上終わりました。

さぁ……

気合い入れていこう!(笑)

※ やはり今では芋が主食ということはないそうですが、太平洋戦争前までは在来種のじゃがいも「治助芋」が実際に主食の座を占めていたそうです。戦時体制が本格化するに従い、食糧量産のため、男爵芋に較べ量産が難しい治助芋の畑は男爵芋の畑に切り替えられ、それと共にじゃがいもはこの地での主食の座を退いたようです(治助芋はほくほくな男爵とは異なり、ねっとりとした里芋のような食感で煮崩れしにくく、和食の定番調味料である醤油にもよく合うので主食にうってつけだったのだとか)。

戦後は米の配給が行われていたものの、物流の悪さゆえ当てにはできず、栽培した小麦で麺を作って食べていたそう。実際、檜原村の手前のあきる野市にも、地元料理を謳ったほうとうの店(ほうとうは通常、山梨県の名物料理として知られる)がありました。

米が主食になり始めたのはおそらく昭和28年も過ぎてからの頃のことではないでしょうか? この頃、武蔵と甲斐をつなぐ県道33号線の整備が進みバスも通るようになって、檜原村と同じく県道33号線が通っている山梨県棡原では、主食が徐々に土地で穫れる雑穀や芋から白米に切り替わってきたといいます。

米は、山間部の急斜面では基本的に栽培できません。確かに棚田のようなケースはありますが、あれも一定以上急な斜面では難しい。そのうえ、元来亜熱帯(および熱帯)地方の植物なので、高い土地の冷涼な気候には向かないのです。

土地で穫れないものが主食になっているという、何とも知れない状況。この辺りに食糧政策を担う国のエゴが見え隠れするように思えるのは私だけでしょうか? (cf. 赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』)

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