文学と写真は近いが両方に取り組んでいる人は少ない、とスーザン・ソンタグは言った。
昭和時代のスナップ写真とか、文句無しに、そう。でも、今どきは… 所幸則氏のアインシュタイン・ロマンスはthe 理系的な美しさだし、鈴木理策氏の作品も近頃はめっきり理系的になってきているように思える(但し、鈴木氏のシリーズ作品はフランス文学の大家マルセル・プルーストの文体に似ているといえなくもない)。その他の「文系」写真にしても、美術系のものだと社会学や文化人類学、あるいは現代思想系のものが多い気がする。
そんな中にあって、宝槻氏のこの写真集はきわめて文学的な仕上がりになっていた。しかしそれはこの写真が流行遅れだという意味では、間違っても、ない。現代的なコミカルさがすべてのページから滲み出ていて、過剰な湿っぽさや重さがほとんど(or 全く?)ない。
ご本人にお目にかかったことがある。敏捷そうなすらりとした立ち姿に、たっぷりの茶目っ気と抜け目の無さを併せ含んだ顔つきで、快活且つ(いい意味で)押しが強そうな印象。そのような方がこんなに微温的な笑いに満ちた写真を撮る、それがとても意外だった。もしかすると、あの快活な振る舞いも、彼一流のユーモアが作り上げたエンターテインメントなのかもしれない。写真家としての彼は、社交する彼を遠巻きに眺めては演出家のように指示を飛ばしているかもしれない。
ユーモアは、対象との距離から生まれる。遠すぎてもいけないが、近すぎてはそもそも生じない。
宝槻氏の笑いは、亡命作家—絶対的な帰依の地を持ち得ない—のミラン・クンデラの笑いに似ている。
同じCRPのレッド・レーベルから出ている写真集の中には、驚くべきことにこれと真逆の作品もある。
真逆というと乱暴だが、要は徹頭徹尾imagesであるような写真たちが並んでいる、ということ。文脈や言語化できるような意味は勿論、撮影者の中には存しているはずだけど、そんな一切がどうでもよくなるほど、ただそのimagesの一つ一つが美しい。器楽曲が(内容はあったとしても)「意味」を持たないのに訴えかけてくるのと同じような感じだ。
少なくとも、私にとっては。
作者の高木氏が写真集の最後に書いていた :
「お風呂上がりにリビングの扉を開けた瞬間、
目の前をキラキラしたものが空中を飛んでそのままそのまま落ちていった。
砂糖の粒子だった。
私は母を、そして父を見上げた。
驚きよりもその一瞬がとても綺麗で
普通に終わる一日がずっと忘れられない一日になった」。
私が小さかった頃、母は毎日和箪笥にはたきを掛けて布巾で拭いていた。陽の光が差し込む中を舞う埃は「キラキラ」光って、かげろうみたいに美しく、儚く見えた。それが私の晴れの日の楽しみのひとつだった。
きっと
彼女の「綺麗」と私の「美しい」が似ていたから、私はこの写真集を買ってしまったのだろう。