Facebookの更新もblog記事の追加もおざなりになっていた今日この頃。忙しさは一段落ついたのですが、2つだけどうしても気になることがあり。1つは月末の撮影旅行のときの天気、もうひとつは… 今さらどうにもしようのないことです(苦笑)。過去の作品についてですが、ポートフォリオの作り方その他で失敗したのだろうか、と。個人的には意義深い作品だったので何らかの結果は出て欲しいのですが、それはもちろん見る側にとってはどうでもよい話であり。とはいえ一方で、いい加減な気持ちで撮ったものってやっぱりそれにふさわしい軽さしかない。
いえ、撮るときはむしろノリでいいと思うのです。ノリ=ライヴ感覚/1回性は大切! ただ、被写体に心が動いていないときはやはり駄目なのです。
先日このblogでお話ししたような訳で、毎日何があっても写真を撮るという実践を行っていたとき、どうしても感動のない1日もたまにあったのですが、そんな日は… 写真家の熊谷聖司氏が「映画は集団で作るからみんなを騙さなきゃいけない。写真なら自分自身を騙すだけでいい」と語っていたのを思い出しながら、感動した自分を演じて撮影していました。
そんなこんなで微妙なこの頃ですが、何もしていなかった訳でもなく(笑)。
7月17日は飯沢耕太郎氏が主催する「写真集を読む」なるイヴェントの特別編に参加。この回はジュリア・マーガレット・キャメロンを扱いました。レクチャーの後は飯沢さんと実際に美術館に行って展示を観られるという特典付き。
やはり面白かったです。
写真に演劇性を導入している、と飯沢氏が盛んに指摘しておられましたが本当だな、と。私自身は「行為してそれを記録する」写真を撮ることに密かな関心を寄せており、演劇と写真のそういった意味での重なりに興味があります。キャメロン写真の演劇性にそれと重なるところがあるのかは正直分かりませんが… それというのも、彼女の写真の演劇性はメディア的制約から生まれた部分もあると思うからです。当時は写真撮影に長い露光時間が必要とされていた時代だったので、生の(演技ではない)瞬間を切り取る/killして獲るような写真はそもそも撮れなかっただろうと。
そしてそれはそのまま企図せずしてメディア論的問題提起へとつながっていきます。彼女の写真を見ていた私は、絵画の一場面そっくりの空間を造り上げ、その中でコスプレをして写真と絵画の—と同時に虚と実の—狭間を漂う森村泰昌の作品を見ているかのような錯覚に陥りました。彼女の写真は、森村の作品の場合とは異なりモデルとなっている具体的な絵画はないようですが、神話や聖書、あるいはそれらをモチーフにした彼女と同時代の文学作品(フランス高踏派や象徴派の詩作品のような感じをイメージして頂ければ、と思います)、ひいてはそれらからインスピレーションを受けた絵画作品を引用したり、それらの影響を受けたりしているため、結果として絵画を写真に翻訳したような作品に仕上がっています。
レクチャー & おいしい昼御飯の後はいよいよ写真展へgo。画家の方と知り合って色々と興味深いお話を伺ったり飯村さんのレクチャーを拝聴したりと充実したひとときを過ごすことができました。欲をいえば、もっとゆっくり観られれば。
その翌日には銀座メゾンエルメス フォーラムにて「奥村雄樹による高橋尚愛」展へ。実をいえばこちらの方がある意味キャメロン展よりも面白かったのですが、本稿ではそれについては触れず… あ、でもこの記事の冒頭の写真に合成されている椅子状のものは「奥村〜」展の作品の一部です(^^)