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Miho Yamazaki

六甲山国際写真祭_2016


このblogを愛読してくださっている皆様、こんにちは。

さて、今日はかなりどうしようもないことを告白しなければなりません。昨日私は、六甲山国際写真祭に日帰りで行ってくるという暴挙に出ました(※ 私は首都圏に住んでいます)。

主な目的はオープンポートフォリオレヴューの見学とワークショップへの参加。本当はこれらそれぞれについて詳細なレポートを作成するのが真っ当なblogerとしての良識ある行為ですが、そうはいかないのが今日の気分… それというのも、今日の昼、私の中で突然吹っ切れたことがあったからです。

倫理的であることと美的であることは、ときに相反する一方で倫理が美を要求することもあるということに改めて思い至ったのでした。

昨日参加した視覚言語についてのワークショップは、the designの基礎のような視線誘導の論理を写真の撮影および/あるいは制作の中でどのように活用するかが主なテーマでした。前半はレクチャー、後半はそれぞれの作品の講評。参加者は、視覚的に成功していると思われる自らの作品を3つ、前半と後半の間の休み時間に選び、後半戦に備えます。そこで困ったことが1つ持ち上がりました。他の参加者の方々に倣って、やはり作品としてシリーズになっているものから見て頂く写真を選んだのですが、実は、そういったデザイン的な意味できちんと構成されているのは、私が作品として撮った写真の方ではなく、逆に普段手すさびに撮った写真の方だったりするという事実に気づいてしまったのでした。

ご覧に入れようとしていた作品は重いテーマのもの。それゆえ画として完全に作り込んでしまうことを、おそらくは無意識のうちにためらってしまった(もちろん、それらの作品が今回のワークショップの趣旨に照らしてNGなものとなってしまった原因はそれ以外にもあるのですが、それはここでは触れずにおきます)。それは、喩えていえば現在進行形の惨事をドラマティックな映画に仕立てることを強いられたときに感じざるを得ないようなためらいです。切羽詰まった状況ゆえに取らざるを得なかった行動が勝手に美談にされたときに感じる気恥ずかしさや(若干の)憤りは、おそらく多くの人が生きる中で体験していると思います。

しかし、ドラマティックであったり英雄的であったりすることと美的であることとは、当然同じではありません。福島県南相馬市で撮影を行って「同地の伝統行事である野馬追⇆日本人としてのアイデンティティー」をテーマにしたNoriko Takasugi氏の美しい作品は、色鮮やかでキャッチーな見た目と同時に、燐光のような静かな情念を漂わせてもいます。Kosuke Okahara氏のフクシマ写真は、それよりはドキュメンタリー色の濃い、いわば「ケ」(←cf.「ケとハレ」)の作品ですが、やはり全く不謹慎さを感じさせないままに美しかった。

とはいえ、Takasugi氏は「これを南相馬の人たちに販売するというのはやはりどこかためらわれる」と、本当に慎ましやかな口調でおっしゃっておられましたし、Okahara氏の、この、モノクロの作品にしても、もしもモノクロの方が統一感が出て美しいという理由だけでモノクロを表現手法に選んだのだとすれば素直には肯定できないと、私は思いました。安直なうえ、黒は喪の色だからです。

人は精一杯努力しても完全に倫理的に生きることはできない

どこかで割り切らなければ、暴力に向かう可能性を感じてもどこかで行動を起こさなければなりません。ではどこで割り切るのか。

詳細は忘れましたが、Okahara氏はあるとき、苦しみのただ中に生きる人々の1人に「俺たちがこんなに苦しんでいることを伝え」る使命を託されたことがあるのだそうです。つまるところ、そこなのかな、と思いました。自分が誰かの使者であると感じられる場合には、眼前の光景を誰かの言伝と捉え、聴き取ったものを自分自身で解釈して—自らの意志で美しい形を与えて—よいのだろう、と。

先月、東北へ撮影に行ったときに「写真を撮れる人っていいなぁ、と思うの。記録しておけるじゃない? 私は生きて、ただ生きっぱなしだけど。写真、どうかたくさん撮っていってくださいね」と、さる方がおっしゃっていたのを思い出しました。この方だけではなく、他にも何人かの方から「いい写真を撮ってくださいね」など、温かい言葉を頂きました。

過去を振り返ってみると、写真とは関係ない文脈での話ですが、私自身、誰かの使者になろうと思い相当注力したにもかかわらず挫折したことは… ありました(思い返すといまだに切なくなります)。ノーベル賞作家のイェリネクも『冬の旅』の中で「使者」という言葉をしきりに使っていました。そこでは、「使者」は選択肢というより逃れられない運命としてあてがわれた任務でした。Okahara氏もまた、使者という運命を引き当てたのでしょう。そして私は… (沈思黙考)

そして私は、自らの運命を知ることのないままに、美的であり、倫理的でもあるような表現を模索しようとしています。それはおそらく、私が今まであまり打ち出してこなかったようなものになると思います…

実はthe 巧い画を描く画力も相当にあったダリは、敢えてそれを手放してあの不思議な表現にたどり着いたそうです。もちろん私は間違ってもダリのように大きな存在ではない訳ですが、それでもこの事実から学ぶことはあるかと。写真力を頼りに勢いで撮った、飾り気のない写真も、私自身はやはり好きです。けれど、それではたどり着けない領域もやはりある… Photoshopでダリやマグリットさながらの不思議imagesを紡ぐAyaka Oku氏の作品を拝見した記憶を反芻しつつ、今宵もパソコンと向き合います。

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