これでいい? その問いを自分に投げかけられなくなったら多分終わりで、でも
これでいい。 そう肯ける瞬間も人は多分必要で。
これらの疑問文と肯定文を手に入れるために、人はおそらく出会いを求める。
先日このblogでも話題にした六甲山国際写真祭は私に問いをたくさん残してくれて、それらを受けるかたちで、私は今、PCの前で試行錯誤を繰り返しています。
画として完成させること…
「開け」を保っておくために、写真というメディアは出来上がりすぎていない方がいい、というのが私の哲学の中にあり、それは、写真集として出す場合に限っていえば幾分かの真実を孕んでいると私はいまだ思っていますが、大きいサイズ(昔の写真ではありえなかったことです)で壁に展示する場合、どうしても1枚ずつに没入するような見方になるので、ある程度は閉じられたものにしないといけないなぁと。
あと、同じくサイズの絡む問題として、大きいサイズにしたときに映える写真と小さいサイズで見ていい感じに思える写真は違うということ。小さいサイズの写真は近くで見るがゆえに、細部を愛しむように鑑賞できるのですが、大きい写真は引いて見るので、細部の面白さよりもむしろ、全体のバランスがグラフィックとして出来上がっていることの方が重要になってくるように思います。
一方、先日訪れた芦田みゆきさんの個展「南南東」は、これでいい、と思わせてくれた「出会い」でした。荒涼とした、それでも申し訳程度の緑が生命の息吹きを感じさせる大地で、紅に身を包んだ女性が舞っている写真が、アクリル加工を施されたかたちで入口の向かいの最も面積の広い壁および左側の壁に展示されています。そして右側の壁には、植物のクローズアップなどの写真が和紙にプリントされて展示されています。それらの和紙の上には、単なるimagesだけでなく、ある種のsymbols=文字たちも、踊るように並んでいます。芦田さんが過去に出した詩集から抜粋されたテクストが紙の面で唄っている。
それは、文学と写真の間で「何か」を求め続けていらっしゃる芦田さんの、ひとつの到達点だったのだと思います。文字のある作品の方もそうですが、むしろ文字の無い方が… これらのimagesは言葉の無い詩なのだ、と私は感じずにいられませんでした。芦田さん、文字を書けない頃から詩を口ずさみ、芦田さんのご両親はそれを書き留めていたという芦田さん… 極限まで研ぎ澄まされた言葉はきっと、音としての姿を失った代わりに色を得て、imagesとなって舞い降りたのです。
言葉と音とimagesの行き交う土地で芦田さんが出した答えのひとつは、この「南南東」でした。
では、私は…
私はそのような場所で何ができるのか?
まだ答えの無い問いですが、とにもかくにも、そこまでたどり着いたことは間違いではなかったと、芦田さんの作品をありがたく拝見させて頂きつつ(僭越ながら)感じていました。
広大無辺なimaginationの種を、蒔こう。
追記
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