この冬から4月中旬にかけては、本当、何だったのでしょう… 気づけばこのblogの更新も滞りがちでしたし、Facebookの皆様とも極くゆったりとしたやり取りしかできておりませんでした。申し訳なくもあり、私自身残念でもあり。
その間にはたくさんのことがありました。個展を通じての様々な方々との出会いはもちろん、個展準備自体や個展後の振り返り作業—その結果は先日このWebサイトのgalleryページにもリンクを貼らせて頂きましたポートフォリオにも反映されております—があまりにも濃密で、正直なところ、しばらく頭がぼんやりとしていたのです。
それでも京都国際写真祭へ赴いたのは、ひとつにはartの仲間である現代アート作家/写真家の東地雄一郎氏の殺し文句に参ってしまったから。京都という、場の力が強い都市のあちこちで写真展が開かれるだけでも興味深いうえ、祭のコンセプト軸もしっかりしているので、巡る価値がある、と。
そんな祭の今年のテーマは「UP」。多様性を肯定的に受け止めて、私たちが新しい地平を切り拓き前進できるように、との思いが込められています。私が巡ったなかでは、リヴ・ボーリンの作品がそうした新しさを分かりやすく提示してくれていたような気がします。
彼は中国人のアーティストなのですが、世界各地に赴き、現地の人々を引き入れてセルフペインティングを行い、彼らと共に回りの風景に溶け込んでしまう、ということを行なっています。昔アメリカで一世を風靡した「パフォーマンスを記録しました」系の写真とも通じるところがあるのですが、人間同士の関係というよりは人と土地との関係を取り上げているところが21世紀的だと個人的には感じました。
今回撮影の舞台となったのはフランスに位置する世界最古のシャンパーニュ・メゾン、ルイナールです。そうした土地の風景に中国人の彼が溶け消えてみせたとき、彼は一緒に変装したメゾンの人々に、自らを取り巻く環境と自らとの関係性を考察するよう無言のうちに促していたでしょう。 そして東洋人である彼自身は、ヨーロッパ文化の懐ともいえる場所に抱かれることで、ある種の越境を体現する。これはグローバリズムがもたらした現実そのものではないでしょうか? 数多の中国人アーティストが海外流出を余儀なくされているのも事実なら、(今回は特に言及されていませんでしたが、少なくとも数年前は) ワインについてフランス当地で学ぶ中国系の学生たちが増えてきている (た) のも事実ですし、そうした人口の移動が何も中国系の人々に限ったことではないのは火を見るよりも明らかです。この作品群は自然と社会の関係性への目配せも、社会自体の「リアル」も共に含んでおり、それらに何らかの応答をするよう私たちに促しうるものとなっているのです。
コンセプトの強さについてはこれで何となく伝わったかと思うのですが、さらに「場の力が強い都市」という立地条件を活かした展示として、蔵造り風の建築「嶋臺ギャラリー」で行われていたフランク ホーヴァットの "Un moment d'une femme" と、建仁寺別院 (両足院) で行われていた中川幸夫の "俎上の華" を挙げないわけにはいきません。
ただ、ホーヴァットの場合は、作品自体が確固たる世界を作り上げているためか、作品と場との相互作用はそれほど強くない気がしました。
それは、とはいえ彼だけでなく深瀬昌久の展示にも当てはまることかもしれません。彼の作品はどこに置いておこうが強烈な存在感がある。憧れでひりひりすると同時に、入れ子状の時間を感じさせるような作品の作りは私自身が試みてきたことにも少し似ていて、親愛の気持ちを込めて幾度も微笑みかけたくなります。
建物の天井が低めだったのに加え、雨催いの天気だったこともあり、どことなく湿度を感じさせる写真群を観ていると、水槽のなかを漂っているような不思議な気分になってきます。
…そう考えると、彼の作品もやはり、緩くではありますが場の空気と睦み合っていたのでしょう。
雨だった京都滞在初日とは異なり、2日目 (最終日) はとても明るい天気で、先に少し言及しました中川氏の展示を見るのにうってつけの光でした。展示自体が写真展というよりインスタレーションに近い3次元的なものだったため、作品自体に加え、会場を静かに滑る光と影が美しかった。
今回心残りだったことといえば、ジャン=ポール・グードの展示を見られなかったことぐらいでしょうか。でもそれも仕方ありません。私にはそのとき、グード鑑賞よりも優先させるべきことがあったのです。
ポートフォリオをプリントしたものを急遽作成、会場であるNTT西日本に置かせて頂く準備を密かに進めていたのでした (笑)。
これから活躍されそうな方々をはじめ、まだまだ紹介したい作家さんはいるのですが、今宵は眠気に負けたためそろそろお暇致します。