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Miho Yamazaki

六本木クロッシングをreportする気力のないときに写真を見て癒やされてみる


「この世は舞台、人は皆役者」(シェークスピア『お気に召すまま』より)

前にご紹介した宝槻氏の作品に続き、文学的人間観察の賜物といえる写真集をご紹介致します♪

成田貴亨氏の『薔薇の庭園』。

宝槻氏の作品が小説的だとすればこちらは演劇的。そう思えるのには勿論、はっきりとした理由があります。

・ 単一の閉鎖空間の中で撮影が完結している

・ (おそらくは、ストロボを用いて)中心となる被写体を明るく浮き立たせている

からです。

フランス古典演劇(17世紀頃のフランス演劇)では、多くの場合、「三単一の法則」に基づく作品作りがなされていました。これは、劇中の時間で1日のうちに1つの場所で1つの行為だけが完結するべきだとするものです。この写真集は、とある庭園(1つの場所)で皆が薔薇を愛でる(1つの行為)ために動いている様子を私という観客に見せてくれました。しかも、スポットライト/ストロボなどという、「劇」的なものを存分に活用して。

そのような舞台設定×演出の中にあっては、被写体となっている人々も役者さながらに見えてきます。来園者は皆役者、庭園が舞台。

成田氏は義理の母を介護する日々の中でこの庭園を見つけ、ここに集う人々と家で床に伏せっている義母とが対照的な人生の一幕を生きていることをひしひしと感じたそうです。しかしそれらはどちらも等しく「一幕」です。この庭園が舞台ならこの世界も舞台。舞台は夢、というのはコルネイユの戯曲の題名ですが、それを受けるなら、この世界は夢。この庭園は夢の中の夢。

そんな「夢」を写真に撮ってWeb空間に投入するであろう人々の姿も、白昼夢の連続体のようなこの写真集には数多収められています。電脳世界に浮かぶそれらのimagesはおそらく、庭園で「夢」を生きた人々が死んだ後も残り続ける永遠の、ゆえに人々自身よりも確固たる「非」存在/夢幻なのでしょう—存在、ではなく。なぜならデジタルデータはそもそも実体を持たないのですから。

同じく「悲しいはずがPOP!」な作品をもうひとつ。

亀井義則氏の "En avril à Paris"。

東日本大震災から1年後の春、その余波を引き摺ったまま赴いたパリで出会った光景を、キャンディー?! な色彩を用いることで、明るく楽しくjoyfulなimageに仕上げています。かわいい…かわいすぎる……。

彼の写真集は、悲しみの中でどうやってこんな離れ業を、と思わず驚いてしまうほど生の喜びに溢れています。しかし彼に限らず、先の成田氏や私自身の過去の写真を振り返ってみて感じるのですが、人とは案外そのようなものなのではないでしょうか?

「いま、ここ」ではないどこかへ飛翔する、人間の小さな頭の中の広大無辺の想像力。そんなことを私は、これら2冊の写真集と、先日訪れた「椿会展2016—初心—」に出展されていた赤瀬川源平の作品から改めてつくづく感じたのでしたが、「初心」の方についてはまた稿を改めて…

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