4月の末には鑑賞していたこの展覧会のreviewを、今ようやく書く気になった。
全てがよかったという訳ではなかったから。一方でしかし、これからの現代アートの方向性を示しているようで興味深くもあった。
数年前に鷲田清一氏が「これからは作品の形のないアートが面白いと思うの」とおっしゃっていたのを思い出す。それはある意味で実現されつつあるのだと思う(そして私も写真というメディアを通じてその流れに加担している)。
行為としてのアートを記録した写真なり動画なりを美術館において展示することは、いまや当たり前の手法となりつつある。そしてその場合、作品と捉えられるべきなのはできあがった映像というよりも、そこに映し出されている行為の方なのだ(もちろん、映像作家の多くは著名な美大や芸大出身であるため、映像としてできあがったもの自体にも美的な洗練が見られるのは事実だが)。
今回出展されていたもののうちからそうした作品の好例を選ぶとすれば、まず挙げるべきは佐々瞬の作品だろう。
『旗の行方』と題されたこの作品は、NHKの朝ドラを通じてご存じの方も多い『暮らしの手帖』創刊者の大橋鎭子氏の言葉に想を得て創造されたもの。国旗ひとつ取っても分かるように、旗はしばしば権力や権威の象徴となりやすいが、大橋氏は、初めての「みんなのための旗」のようなものとして暮らしの手帖を立ち上げた。
それを踏まえて作られたこの作品は3つの要素から成っている。
a. 佐々は、大橋と世代の近い女性たち何人かの家を訪ね、古布の提供を受けるとともにその布にエピソードを語ってもらうのだが、その様子を収めた映像
b. そのとき集めた古布をつなぎ、佐々自身が作った旗
c. 女装でその旗を振りかざす佐々の映像
これら3つのうち、もしcが欠けていたら、この作品は私にとって「最近よくあるパターン」で終わっていたかもしれない。近いところでは2015年度の写真新世紀でも同じようなパターンの作品があった—現地で何かをし、そのドキュメントを撮り、現地で入手したものから「証拠の品」を作る。この作品の感動はおそらくcにこそ宿っている。
六本木クロッシング2016がテーマとしているもののひとつにジェンダーがある。ジェンダーの問題、現代においてフェミニズムの領域で扱われる問題の中核にあるのは「他者理解」だといってよい。自と他はどのように、どこまで歩み寄ることができるのか。その方法として、彼は女を演じることを選んだ。伝統的に女性の仕事とされてきた針仕事をし、女性の格好で街を歩いた。それが最適な方法かどうか、他にもっとよいやり方があるのかどうかをあえて問う必要は無い。彼が勇敢にも、普通に考えれば「小っ恥ずかしい」方法を用いて歩み寄りの意志を表明したことだけで、すでに評価に値するからだ。
同様に自らの「体を張っ」ていた作家としては、片山真理が挙げられる。出展作品には、布や鏡を使った上の写真のようなものの他、自らがコスプレをして小部屋的な空間で撮った全身セルフィー写真もあった。
片山はごく幼い頃に足を切除し、義足での生活を始めている。周囲の子供たちとの差異を感じる中で、自らの身体について自然、考えるようになっていったという。自分そのままというよりも自らを演じている自分を写しているように見えるセルフィー群は、そうした月日の積み重ねゆえか、確かに思索の跡がありありと見て取れる内発的/自発的なものとなっている
ただ、それでも私は作品を前に軽い反発を覚えざるを得なかった。美しいと思う反面、そこから発されるねとつき感に馴染めなかった。私自身が性的な情念の希薄なタイプだからなのか、普段は完封しきっていて意識さえしない私自身の過剰な自意識が刺激されるからなのか、あるいはもっと他に理由があるのかは分からない。
好きになれないけれど美しい、記憶に残るimage。
同じ展覧会に出展している写真作家石川竜一の作品よりも、写真としてはよかったように思う。
石川は沖縄に住む人々のポートレートを撮り続けており、それらの作品群は高く評価されている。にもかかわらず、私は彼の写真自体よりもその展示方法に惹かれてしまったのだった。現代の液晶モニターとは違う旧いタイプのテレビ画面に、沖縄の人々の姿が(おそらくはランダムに)映し出される。各肖像に割り当てられた時間はおそらくそれぞれ異なっている
圧巻だった。
これらとは異なり、imageとして云々よりも文学的価値の高いものに藤井光の『帝国の教育制度』
と、ジュン・ヤンの『罪と許しの時代』
がある。
ジュン・ヤン作品についてはここではあまり詳らかにしないでおくが、マルグリット・デュラス原作の映画 "Hiroshima, mon amour" の映像と日本の政治家安倍晋三の演説の映像が解体され、つなぎ合わされていることだけは述べておかなければなるまい。何はともあれ、新鮮だった。日本生まれ、日本育ちの作家には、政治色を前面に出した作品を作る者は残念ながらあまりいない。
藤井光はしかし、そうした数少ない政治的ジャパン作家—とはいえ彼は海外でアーティストとしての研鑽を積んでいる—の1人だ。
彼は韓国の学生を集め、帝国主義時代の日本の国策教育に関する映像を見せ、その中のいくつかの場面を学生たちに演じてもらう。その体験を通じて彼らは、日本人もまた理想の日本国民像に「同化」することを強いられていたと知るだろう(体育の授業とナショナリズムの強化—国の意向に沿うよう規格化される身体)。この過程において加害者と被害者の境界は曖昧になっていく。とはいえ日本の行為は正当化される訳ではなく、植民地政策の過程で行ってきた負の行為も並行して上映され、学生たちによって再演される。
最後に演じられるのは韓国独立の場面だ。彼らはこの祝祭を栄えあるものにしようと努める。万歳の声と演技を超えた涙。ここで藤井は「この場面をもっとよいものにするためにはどうすればいいと思う?」と学生たちに問う。彼らは、普通に歩くよりも足並みを揃えて行進した方が綺麗に見えるだろうといい、練習を始める。そして行進こそは「お国のための」身体を作り上げるため、帝国主義下で熱心に行われていたことだった。
とはいえ… 最も感覚に訴えたのは志村信裕の『見島牛』だったかもしれない(冒頭の写真を参照)。耕作用の在来種である見島牛との、個人的だったり社会学的だったりする逸話を、見島の高齢者が方言で淡々と語る。そしてその老人の姿が映し出されることはない。流れる映像は島の光景を映し出したもので、多くは(もしかすると全て?)固定カメラで撮られている。風でそよぐ木々の葉や波立つ水面、そしてそこに反射する光、時の停まったような小屋の中、ときたま徐に動く牛。静止画/写真の一歩手前のようなimagesの集積にただ惹き込まれるばかりだった。いわゆる超高画質ではないにもかかわらず圧倒的な存在感に溢れたその映像を前に、もしかすると自分の記憶の中で響いているのかもしれないとさえ感じられる老人の語りを聞いていると、私自身が老人になったかのような気がしてくる。
身体の相互浸透。
…このcritiqueをどうやって〆ればよいのだろう? 私には分からない。この世界と同様、悪くいえば散漫、よくいえば多様だった。とにかく、
たくさんの
たくさんの身体があった。