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Miho Yamazaki

Emi Fukuyama→Walker Evans via Kaido


福山えみさんという写真家の方の個展「岸は見ていた」が、もはや行きつけとなっているギャラリー "Poetic Scape" にて行われていたので(かなり会期終了間際だったのですが、今さらながら)観に行ってきました。

いわゆる「コンセプト」でまとめた感じの作品群ではないので現代美術的な見応えは特にないのですが、ごく普通の距離で撮った写真については、そこはかとない浮遊感や、人が写っていないのに感じられるほのかな温もりを発しているimagesの連続が純粋に心地よかったですし、引き気味で、あるいは俯瞰的に撮られた風景写真には、その場所らしさを象徴する被写体と土地のイメージに照らして意外に思われるような被写体とが混在していて、社会学的とさえいえるほどの中立性と、どこか現実離れした雰囲気のある独特の存在感とが同居していて、「写真」としては好きでした。

そんな素敵な写真をお撮りになる福山さんは、とある雑誌にも写真や記事を提供していらっしゃいます。

『街道』。写真家、尾仲浩二氏がそのワークショップに参加していた写真家や写真家の卵を中心とする方々に声を掛けて発刊へと至ったのだそう。

この雑誌に写真を提供なさっている方々は「街道」の名で半ば定期的にグループ展を開いています。福山さんからその事実を聞いた私は、当然観に行きました。

展示全体の雰囲気は、あまり福山さんの写真のようではなかったです。どちらかといえばもう少し上の世代のスナップ写真に近い作品が多く、展示よりも写真集にした方が映えるように思いました(実際、同時販売していた写真集がいい感じだったのです)。

私は会場で販売されていた『街道』第3巻を買って会場を出ました。

その翌日は写真集食堂めぐたまにて、アメリカ現代写真の草分け兼大成者Walker Evansについてお勉強。写真評論家であり、コンペティション「写真新世紀」の創始者でもある飯沢耕太郎氏が(ほぼ)毎月一度レクチャーしてくださるのです。

Walker Evans (ウォーカー・エヴァンズ)については、確か以前一度このblogでも言及したように思います。しかしそのとき、私は彼の経歴その他についてはほとんど知りませんでした。

元々はフランス文学に関心があり、パリのソルボンヌ大学にも留学していたことがあったとか。好きな詩人はボードレール、気になっていた小説家はフローベールにプルースト(余談ですが、プルーストと写真の関係は割とよく指摘されており、この小説家自身メディアとしての写真に相応の関心を寄せていたのだとか)。文筆家志望だったという話もあるそうです。フランスに留学していた身としてはここでまず共感。彼がどんな思いでヨーロッパに渡ったのかと考えると胸が一杯になりました。『世界史の臨界』の著者の西谷修氏も確か語っていたと思いますが、西暦が世界の時間を支配し、世界のおよそあらゆる場所が西洋による植民地支配を経験した今、私たちは皆、好むと好まざるとに関わらず文明や文化の面でヨーロッパの「遺伝子」を受け継いでいます。私は、だから父祖の地を踏みたかったし知りたかった。ヨーロッパから切り離されざるを得なかったヨーロッパ人たちの漂着地であるアメリカの人々ならなおのことそう思うでしょう。実際、ガートルード・スタインもアーネスト・ヘミングウェイもフランスに渡った。

エヴァンズはどんな気持ちでパリを歩いていたのでしょうか。

彼はウジェーヌ・アジェのパリ写真に惚れ込んでいだのだそうです。アジェの写真は私もシュールレアリスムについて調べていた頃に見ました。ぶっきらぼうで詩的な写真が多い印象。

「ぶっきらぼうで詩的」の方向性はかなり異なりますが、この形容自体はエヴァンズにもやはりあてがわれうるものでしょう。エヴァンズの写真は「ストレート」で「芸術性を排し」たものである。とよくいわれます。

正面から「まんま」を撮った写真が多いのは事実です。しかしこの「まんま」は機械のような客観性を持ったものでは決してないように思えます。飯沢さんもドイツ系アメリカ人の美しい農婦の方のポートレート写真やDIY精神に則って建てられた慎ましやかな家の写真を例に挙げ、「エヴァンズが正面からこんなふうに撮るのは被写体に対して敬意を表しているとき」とおっしゃっていました。

「ニュートラル」は1つのスタイルです。「芸術」的ではなくてもそれは1つの芸術表現のあり方です。私がいまだ敬愛している作家、アルベール・カミュの「零度」のエクリチュール/書法(cf. ロラン・バルト)がそうであったように。

1枚ずつ見ても興味深いエヴァンズの写真ですが、写真集のまとめ方も同じくらい秀逸。テーマごとに緩くまとめられているのですが、その中では引きのアングルと寄りのアングルや内からの視点と外からの視点が規則的に繰り返され、飯沢耕太郎氏いわく「共通性とコントラスト」を兼ね備えた仕上がりとなっています。

共通性とコントラストといえば、フローベールやプルーストの作品は間接自由話法が多用されていたことが想起されます。地の文の中で語り手が移ろっていくこの手法。語り手が移ろうことは同時に、視点が移ろうことを意味します。実際、エヴァンズは異なる登場人物に語らせるかのように「被写体に応じて3種類のカメラを使い分けていた」のだそう。そしてそれら複数の種類のカメラで撮られた写真がフローベールの話法×語り手操作に比肩するような魔術的手法によって違和感なく並んでいる。

(こう見ていくと、エヴァンズの写真集「アメリカン・フォトグラフズ」の随所に差し挟まれているコカ・コーラの看板さえプルーストの『失われた時を求めて』のマドレーヌのように思えてきます)。

文筆を断念したエヴァンズは写真で壮大な叙事詩(like "Ulysses"?!)を編みました。そこには彼の愛した文豪たちの遺伝子がしっかりと組み込まれていました。

写真であると同時に文学としても読める彼の写真。時代を超えても凄いものはやはり通常の「枠」を超えているのだな、と実感しました。それが過ぎると同時代人の理解を得られなくなるという難しさがあるので匙加減は弁えなければなりませんが、それにしても…

Miho Yamazakiエヴァンズ目指そう説!

…というよりも、すでにある程度影響を受けている気がします。今回彼の写真集を繰っていて、彼の写真には意外に見覚えがあるな、と。実は、私は固有名詞を覚えるのが本当に苦手なので、エヴァンズの作品だと認識しないままに写真を覚えていたということなのだと思います(痛)。

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