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Miho Yamazaki

Mediaは遊んでも弄ばれるな


私のFacebookをご愛読くださっている皆様には予告済みですが、先日「暗渠パラダイス」展をついに体験してまいりました♪ この日はこの展示だけでなく、東京ステーションギャラリーで行われていた "12 Rooms 12 Artists" を鑑賞したり、さる方の友人のliveに行ったりと、本当に充実した1日でした。LiveについてはもうFacebookの私のタイムラインに記事を上げましたので、こちらでは "12 Rooms 12 Artists” をご紹介しようと思います(「暗渠〜」は、書いている途中でスタミナが切れそうなのでまたの機会に)。

“12 Rooms 12 Artists” は、ベジタブル・ウェポンのシリーズが印象的だった小沢剛氏のその後が見られるかも、と思ったこともあり訪れたのですが、彼の作品については本当にベジタブル・ウェポンしかありませんでした。印象的だったのはむしろ、エド・ルーシェイ、ルシアン・フロイド、そしてアンソニー・カロのオダリスク。

エド・ルーシェイはアメリカのポップ・アートとコンセプチュアル・アートとをつなぐ重要人物だといわれているようですが、作品を見ると確かにそんな感じがします。

スパム(加工肉の缶詰の)や39年式フォード、ガソリンスタンドなどアメリカの産業界のアイコンのようなものを平面的に書いた作品群は、ポップ・アートのVIP、アンディ・ウォーホルの作品と重なりそうで重ならない、どこか醒めた雰囲気に貫かれています。そこから繁栄万歳の声は聞こえない。もしかして、と思い確認してみると、これらのいわば「青ざめたアメリカの肖像」とでもいうべき作品群が描かれたのはヴェトナム戦争直前から戦中にかけて。

自らに対して懐疑的に、ひいては内省的にならざるを得なくなっていくアメリカと軌を一にするようにアメリカのアート界はコンセプチュアルな方向に進んで行かざるを得なくなるのでしょうか。アメリカが支援していた南ヴェトナムが敗北し、ヴェトナム戦争が終わったのは1975年。展示されていたルーシェイ作品の制作年代は、1973年の後、1987年に一気に飛んでいます。1987年の作品「ブラザー、シスター」については(うろ覚えなので)あまりいうこともないのですが、1992年の「名場面」シリーズについては、作品とタイトルの関係からしてすでにコンセプチュアルで、これまでの作品と一線を画す特徴的なものだったので言及しない訳にはいかないでしょう。作品(絵画作品)自体は、ハリウッド映画に典型的な場面を抜き出して部分的に拡大することで完全に文脈から切り離し、もはや意味を成さない断片にして提示したものなのですが、そのそれぞれに、描かれているものがハリウッド映画の断片であることを匂わせるようなタイトルが付されているのです。とても興味深く鑑賞しつつ、この方法は写真にも使えるかもしれないと感じました。

画家のルシアン・フロイドは、かの有名な精神分析医フロイトの孫で国籍はイギリス。もしかすると私が研究していたSamuel Beckettとも知り合いだったのではないかと思います。フランシス・ベーコンほどではないのですが、どこか生肉っぽさのあるぐにゃりとした肉体を描いています。それがHDRを利用して戯れに撮る写真のようでとても面白かった(HDRについての詳しい説明は省きますが、要は何枚かの写真の合成であるため、被写体が動くとその軌跡が流体あるいはスライムのように写るのです)。制作当時はそんなテクノロジーはまだ無かったはずなのに、期せずして時代を先取りしてしまった。

大学院である先生がなさっていたバルザックの話を思い出しました。飛行機自体が普及しておらず、ましてや航空写真など撮られてさえいない時代に、この作家は上空から見た都市を描写していたというのです。

人間の偉大な想像力。

これら両作家の作品にいえるのはメディア横断的な可能性を孕んでいるということ。旧いメディア(絵画)を用いて新しいメディア(写真)の可能性を開示してくれているのです。

やっぱり、メディアは追いかけないで先回りするのがいい—そんなことを改めて感じた展示でした。

アンソニー・カロのオダリスクについては特に触れません。感覚的にいいと思っただけなので。ここにはただ、あの作品が現代彫刻を台座から解放するのに一役買ったという事実のみを記しておきます。

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