5月10日に会期が終了する「山崎博/計画と偶然」展。もっと前に観に行っていたのです。でも、何も書けなかった。あまりにも明白で、秘密など何もなかったから。でも、それがとても豊かだった。彼の作品は、そこにただ時間があり、空間があったという事実を圧倒的な強度で伝えていました。
「決定的瞬間」とは全くといってよいほど異なった、蓄積された時間を映し出すものとしての写真。それが最も分かりやすいかたちで表れているのは『水平線採集』をはじめとする、太陽を長時間露光で撮影したシリーズですが、残念ながらそちらの方は、上掲のものを含む一部の作品を除いては撮影禁止でした。
こちらは『櫻』シリーズの中でも『水のフォトグラム』と同じ手法で作られたもののようです (「ようです」というのは、正確な説明が見つからないので…)。おそらく、現像液のうえに櫻を浮かべるなどして、櫻の影や現像液の波紋を直接印画紙に焼き付けているのでしょう。普通の写真であれば被写体は現像の時空間とは切り離されたところにしか存在し得ないわけですが、この写真や、画家志望者だった写真作家マン・レイの一部の作品などにおいては、それが一致している。
こうした試みは一見とても革新的に思えますが、実は写真の起源に迫るものでもあります。写真の黎明期に出された作品集『自然の鉛筆』で知られるタルボット (トールボット、Talbot) は、同様の試みを1830年代にすでに行なっています。
この作品で新しいのはむしろ、水の波紋の存在でしょう。この波紋を創り出しているのは、櫻を落としたり、場合によっては現像液をかき混ぜたりする山崎の身体の運動の軌跡です。これは、「決定的瞬間」を捉える写真家たちの写真とは全く異なる方法を取ってはいるものの、少なくともそれらと同じだけ、あるいはそれ以上に撮る/取る者の身体を感じさせます。
撮る者は、同時に撮られてもいるのです。
そのようにフィジカルな、あるいは—幾何学的な見た目に反して—艶めかしい山崎の写真は、あらゆる存在の属性や名前を剥ぎ取り、肌理のようなものに還元してしまうことがあります。そうすることで見えてくるものを、抽象画のように捉えたり、非物質で織りなされた世界を取りだしたものだと見なしたりすることは簡単です。非物質的—山崎本人さえ、ときに自身の作品をそのように形容していたようです。彼の写真はしかし、眼で捉えられるような「もの」性を映し出してはいないだけで、触覚的な次元では極めて直接的に、「存在の感覚」というべきものを表現しています。劇作家であると同時にマルチメディアアーティストであったサミュエル・ベケットは「理性ではなく神経に直接作用する作品を作りたい」と語っていたそうですが、山崎の作品は正しくそのようなものではないでしょうか?
最後に、今まで展開してきた身体性についての思索とは全く別の話ですが、山崎氏がmedia (表現媒体) の使い分けに卓越していたことを思わせる作品を掲載し、この記事を終えたいと思います。
太陽光の煌めく水面を動画で録った作品です。このように静止させてみますと「あぁ、水面ね」と特に抵抗なく受け取られるようですが、実際に動いているのを見ると、古いヴィデオを再生したときやテレビ番組の放送時間外にテレビの受像器に発生するノイズのようで、しばらくの間、(もちろん、いい意味で) 感覚が混乱するのを禁じ得ませんでした。
物理の世界ではきっと、テレビスクリーンも太陽も、光を発するという点において平等な存在なのでしょう。
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