富士屋ホテルに泊まるということ、
それは、東京都庭園美術館での藤井光作品収録体験と、帝国ホテルで執り行われた知己の結婚式に続く出来事だった。日本近代の表舞台と接するような場に出ると、私はいつも母方の祖母を思い出す。彼女はおそらくその身に近代の光と闇を一手に引き受けていただろう。伝統と美に包まれて育った優雅な娘時代と関西での華やかな学生時代と父権主義的な家族制度の頸木と、信じていた何かの崩壊に伴う軽くて深い失望と。そんな彼女のことを書こうとすればいくらでも詳細を書く気になる、でも書かない、少なくとも今は。彼女はもう死者であり、彼女のことを書いてよいのか彼女に問うことができないから。いずれにせよ、彼女の姿を思い出すとモーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が頭の中で響き渡る。この曲ができたとき、富士屋ホテルはもうこの場所に建っていたはずだ、そう、アール・ヌーヴォーの時代にはもうできていて、なのにこのホテルの内装は庭園美術館と同じで、アール・デコの雰囲気が強くある。アール・ヌーヴォーの後の時代の様式で、1910年代から1930年代にかけて流行した。『亡き王女』は1899年作曲で、管弦楽用に編曲されたのが1910年。この曲もこのホテルも来るべき時代の美を先取りしていたのかもしれない。今ではもう過ぎ去ったものだ。食堂として使われている大広間に、見えないように配備されている、おそらくは現代式のスピーカーからは、『亡き王女』よりも古いクラシックが流れてくる。蓄音機でいい、と私は思う。ルノワールの息子が作った映画だっただろうか、川を家族連れや恋人たちがボートで下る場面があったのを思い出す。あれは祖母が恋人とボートで水上のひとときを楽しんだ頃よりも前だろうか、それとも後だろうか。はっきりしているのは、2人がポータブル式の蓄音機を持って舟に乗り込んだことだ。彼らが何の曲を聴いていたのか私にはもう確かめる術がない。祖母も祖父も亡くなっているし、そもそもその恋人は私の祖父ではない。ホテルの音楽の音量は適度に抑制が効いていて、追想と環境音を綯う。給仕の方々の節度ある言葉がけや、食器類が整然と並べられ整然と下げられる音、フィンガーボールの中の細波が立てる微かなノイズが、祖母の仕事部屋に流れていた静かで規則正しいリズムを、頼みもしないのに引き連れてくる。それがどこから生じていたのか正確に言い当てることはできない。街中の喧噪とは隔たった自然から湧き出ていたともいえるし、祖母の優美な所作によって刻まれていたともいえる。鹿威しのように、揺らぎをはらみつつも総じて乱れることなく、それは続いていた。このホテルの夕餐の皿が私を急き立てることも待たせることもなく運ばれてくるように。本当は終わってしまう永遠のイリュージョン、全ては終わる、そうと分かっていても私たちは幸せを感じることができる。ごちそうさまでしたと申し上げて広間を出る。しばらく歩いた後、背後に気配を感じたので振り返るとモーリス・ドゥニの画があった。
私たち—私は母と妹と一緒に来ていた—が泊まったのはチャーリー・チャップリンもいたことのある部屋で、投宿は1932年のことだったそうだ。その期間には五・一五事件も起こっている。ファシズムの予感。その頃、映画『独裁者』はまだこの世に出ていなかったけれど、この作品を通じて彼が行なったナチズム批判を、部屋にいる私は知っている。窓越しに世界に話しかけているフェルメールの画の登場人物たちを思い出す。私は時間越しにチャーリーに話しかけてみたい。
翌日の朝食も大広間だった。正確にいえば、大広間を選んだ。母と妹は地下でビュッフェ、私はコース。朝から急き立てられるのは厭だった。朝食にはおそらく1時間近くかけただろうと思う。珈琲とピンクグレープフルーツジュース、サラダ、キノコのオムレツに添えつけのソーセージ、食パンのトーストとクロワッサン。調えられて客を待つテーブルの上をゆっくりと動く柔らかな陽光が心地よかった。上に目を遣ると年月で燻された天井画が美しかった。画の存在には前の晩から気づいていたけれど、陽の光に照らされるといっそうニュアンスを帯びて見えた。格子状に区切られた天井の日本的な秩序はどこか祖母の部屋に似ていた。家政女学校を出た後に文化服装で洋裁を学び、なのになぜか和裁で稼いでいた彼女の仕事部屋は、籐椅子2脚と小さなテーブル以外はほぼ純粋な和空間だった、違う、三面鏡のついたドレッサーもあった、かもしれない、いずれにせよ部屋はもう残っていない、部屋の写真も。確実に覚えているのは、格子の入った明かり取り窓のところにひょっとことおかめの面が1つずつあったことだ。当時の私にはおかめの何が美しいのか分からなかった。ひょっとこは、今も昔も楽しそうに見える。
朝食の後は出発時刻の迫る中で庭を探索した。遠くの山々にも近くの林にも雪がかなり残っているのが見える。ここは、山奥のこの場所はそれでも、横浜や、帝国ホテルで結婚式を挙げた知己の嫁ぎ先である小田原と同じ神奈川県なのだ。彼女の晴れ姿は美しかった。白いドレスも、金糸で刺繍が施された着物もよく似合っていた。わが家の箪笥にあるどっしりとした帯と似た着物だった。その帯の来歴を私は知っている。私が亡くなって妹も亡くなれば帯の来歴を知る者は誰もいなくなるだろう。彼女の着物は彼女の祖母 (だったはず) がM家に嫁いだときに纏っていたものだ。あのとき私は、いたかもしれないもうひとりの自分を見るかのように彼女を見ていた。私は彼女の幸せを願っているし、信じてもいる。そして私は、彼女でも彼女の祖母でも私の祖母でもない。優美さとは節度だ。対して私は、何かをやるときは徹底的にやってしまう。母方の祖父の血のせいだ。彼はもしかすると最後まで祖母の最愛の人にはなれなかったのだろうか、とふいに思う。どのみち祖母は私を愛していた。彼女の仕事部屋に入り浸るのを許されていたのはおそらく私だけだった。雪は足下にもかなり残っていた。私は小さい頃にやらかしたことを思い出した。母から聞いて覚えているだけなのか自分の直接の記憶も混ざっているのかはっきりとはしないけれど、ティッシュ箱の中のティッシュを全て、一枚一枚取りだして床一面に撒いて楽しそうにしていたのだった。1歳にも満たない小さな生き物が単純至極な行為を倦むことなく250回 (※ 推定値) 繰り返したという、どうということもないようで、よくよく考えれば最高にcrazyな事実。
モーリス・ラヴェルも祖母もいないこの世界で、どうであれ私は私なのだろう。富士屋ホテルにこのままいたい気がしたが、私は私の世界に戻らなければならない。思い出したいときは写真を見て、『亡き王女』を聴けばいい。