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Miho Yamazaki

東地さんに会いに行く @ SPIRAL


先週末、表参道のSPIRALに行ってきた。東地雄一郎氏が2017年5月7日まで行われていたSICF18に作品を出しておられたからだ。

出展者は各々、小さなブースをあてがわれる。底面を正方形とする筒のような空間 (通路に面した側には仕切りがないので、正確には筒ではない)。そのそれぞれに小宇宙があった。摂食障害を扱った社会派 × 体験型の絵画/インスタレーション (松本莉央) もあれば、スーラが抽象画に転向したように見えなくもない、ポップでありながら伝統的な美術に文脈に則ってもいるように見える画 (浅井文昭—「※1」もご参照頂ければ、と思う) もあったし、純粋に美しく見える福田陸の幾何学的な版画 (個人的には、これが同様のヴィジュアルの写真作品だったらもっとそそられたと思う!) もあれば、同様に「理系」的な美を湛えてはいても、むしろ科学的な現象への素朴な驚きや興味を洗練された表現に昇華させた作品もあった (※2)。

福田陸の幾何学的な作品

※1 とはいえ、浅井氏の過去の作品を見ているとむしろ、drawingやgraffiti的な要素と草間弥生的なヴィジョンの交差地点に居合わせているような印象を受ける。

※2 伍嘉浩の作品だったと思うが、もしも間違っていたらご指摘頂きたく… (Webで調べてみたが、確証が得られなかった)

東地氏の作品はおそらく、最後に挙げた系列に属する。

富士山というアイコニックなものを誰にでもそれと分かる構図で撮り、それを何度もコピー機で複写する。すると写真は徐々に泡で描かれた画のようになってゆき、最後には、円に近似する図形で構成されたフォルムへと解体される。

富士山の形があまりによく知られているため、観る側はそれでも富士山の存在を認識できるのだが、この「認識できる」こと自体が、外形とアイデンティティとの結びつきに対する問いを、認識している者自身に突きつける。それはたとえば、整形手術を受けた身近な誰かを目の当たりにしたような感覚だ。あるもの「X」を変容させていくとき、変化がどの程度までなら人はそれをXと同定できるのか、というような。

しかしこれはあくまで、作品が結果的にもたらした効果だ。東地氏の狙いはまた別のところにあった。彼が惹きつけられたのは、正確にオリジナルを複写するはずのコピー機というものが、実は差異を生む装置だという事実だ。氏の関心の根本は、見えるはずなのに多くの人に見えていないものを多くの人が見えるような仕方で提示することにある。

複写時に差異がもたらされるという現象は、DNAの情報の転写にあたって起こることでもある。そしてそれは致命的な障害や疾患の原因になると同時に、生物の進化にも寄与してきた。そんなことを考えながら氏の作品と向き合うと、幾度もの複写を経て現れた「つぶつぶ」が、連なって生きる細胞のように見えてくる。

存在の、根本—

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