こんにちは、ご無沙汰しておりました!
最近本当にじっくりと長文を書く時間が無く… 下記のダヤニータ・シン展に行ったのも1週間以上前のことだったのですが。
報道分野でキャリアを開始した彼女は今、現代アート作家と認識される立場にあり、その作品は、報道写真家としてはある意味過剰であり、現代アート作家としてはいい意味で抑制が利いています。個人的に過ぎる「何か」を強く掲げることはなく、かといって皆が期待するようなステレオタイプに被写体を押し込めるようなことも決してありません。
彼女がジャーナリストだった頃に撮り始めたユーナック (去勢された男性) の1人、モナの写真は、被写体に期待される集団的属性の「顔」を越えた先にある彼/彼女個人を確かに捉えていました。
アーティスト活動を始めるきっかけとなった作品 "I am as I am (私としての私)" では、写真イメージの構築的な美しさと、そこに写し込まれた、被写体個々人の本質に迫るような何かが見事な調和を見せていました (その点において、彼女の作品はしばしば奈良原一高のそれを想起させもします)。
こうした確固たる写真力をベースに持ちつつも、作家となって以降の彼女は写真の見せ方にかなり重点を置いています。
代表的なものは「ミュージアム」シリーズです。いくつかの面がアクリル板張りになっている木箱を積み重ねた構造物の中に写真を入れたものを、彼女は「ミュージアム」と呼んでおり、各ミュージアムに入っている写真はいつも同じなのですが、積み方などによって見える写真やその並び順が変わります。彼女自身はこれを、同じ写真群から異なる物語をいくつも紡ぎ出すプロセスと捉えているようですが、これはボルヘスがかつて予言し、ヌーヴォー・ロマンと呼ばれる小説/文学作品の流れを汲む小説家たちが実現させた、まとまりごとに読む順番を組み替えてもそれはそれで話が成立するような文学作品と非常に似た語りの手法だといえるでしょう。
このシリーズは、しかし、imagesと文学に接点を見出しそれを描出することに留まるものでは決してありません。作家自身が作品の選定・配置/キュレーションを行うことはそのまま、美術制度批評の試みでもあります。このように言い切ってしまうと行き過ぎた読みにも思われるかもしれませんが、実際、彼女の (いい意味での) 反体制的な精神は "Sent A Letter" など他の作品によっても証し立てられています。彼女が近しい人々に送っていた手製本の写真集に目をつけたSteidl社がそれをほぼそのままの誌面レイアウトおよび装丁でいくつも印刷し出版したものを、彼女は「美術作品」(← 通常、希少性ゆえ高価値、高価格なものと捉えられる) として美術館に展示したのです。
欧米のマスコミが求めるエキゾチズムに疑問を持ちアーティストに転向した彼女の「ロック・スピリット」は、著名なアーティストになっても変わらなかった—その事実は、彼女の作品自体と同じくらいの強度で今も私を圧倒し続けています。
ちなみに、彼女はカラーもモノクロも撮るのですが、今回の展示はモノクロがほとんどで、唯一展示されていたカラー作品は現時点での最新作 "Time Measures” シリーズ (全35点からなる) のみでした。配布されていたパンフレットには「色の褪せた赤い風呂敷でくるまれた同じくらいの大きさの包みを上からクローズアップで撮っている」とだけ書いてありましたが、もしかするとこれには、彼女が自身の作品を集めて自らの手で作った写真集 (それらもまた、展示されるべき彼女の作品です) が包まれているのかもしれません。そのせいか、極めて造形的に撮られているはずのそれには幾何学的な鋭さや零度感はなく、むしろ人肌の温もりが感じられたくらいでした。着物を撮った石内都作品にも少し似ていて。
こういうブツ撮りができる人になりたいなぁ (笑)。