今年3月末に開催した自身の個展やKanzan Galleryで開催していた「わたしの怪物」(清水裕貴) 展、そして最近読んだ写真家中平卓馬の評論集を通じ、改めて言葉とimageの関係に思いを馳せています。
私自身のことに限っていえば、最初はいつもimagesで始まる。それを言葉で整理してimagesから不要なものを削ぎ落としたり足りないものを付け足したりする。そうするとまた新たなimagesが生まれ出る。その過程を繰り返して、imagesが1つになった瞬間、これでいいと思えた時点で作業としての制作 (撮影・編集) が始まる。
この時点はきっと、伝統的な意味での画家や詩人であれば、むしろそこで制作を終わるべき時点だと思います。なぜなら、不要なものを削ぎ落としたり足りないものを付け足したりする過程そのものが制作であって、1つになったimageそのものが作品だから。
現代における「作品」のあり方は、けれどそれを許さないでしょう。現代において作品は大がかりになる傾向があります。作品自体の大きさや作品に関わる人々の数ということもそうですし、シリーズ化・プロジェクト化されることで制作にかかる合計時間も長大になってきています。そうなるとやはりある程度の決め打ちが必要となってきます。さらに、スポンサーが付いているアーティストの場合は事前に企画書を提出しなければなりません。
加えて、写真というメディアの特殊性もあります。撮影の前に、ある程度は「この場所のこれを撮る」ということを決めておかなければそもそも撮影に行けない (笑)。また、いまや誰でも (技術としては) 撮れてしまうがゆえに、1枚の写真を取りだしてその是非や優劣 (←そもそもこのような概念自体がartにそぐわないものではあるのですが) を評価することが難しいため、作家性を乗せるべき重心が、どう見せるかということ (編集) の方に移ってきている現実もあります。
そして、この「どう見せるか」の部分にも言葉が関わってくる。報道写真には昔から付いている写真のキャプションもそうですし、荒木経惟氏のキャッチーな作品タイトルやボディコピー?! の数々もそうですが、言葉の絡ませ方が作家性を証し立てるものである以上、そういったものとは違うかたちの言葉の絡ませ方を写真作家や写真を用いる作家は各々模索していかなければならない。
私たちは言葉を紡ぎ出す。その過程でもまた、imagesと言葉の間でやりとりが繰り返される。私たちは言葉から逃れられない。
私自身は演劇的 (ト書き的) な言葉を写真と絡ませることを考えていますが、上述した「わたしの怪物」展では詩的な言葉が、当記事タイトルに名前を出した小瀬村真美氏作品では、言葉が実際に使われているわけではありませんが、小説をはじめとする文学作品の構造や内容に欠かせない要素が作品と絡み合っていました。入れ子構造、虚と実の境目の取り扱い、時間への意識 (たとえば、複数時間の併存や痕跡への関心) などです。
このうち、2番目の「虚と実の境目」については、現在開催中の展示の紹介文にもしばしば書かれている「絵画と写真の関係性に実践 (制作)を通じて迫る」という作者の企図に、その多くを負っているのでしょう。そして、巷に流れる展示紹介文の多くは主にその点に焦点を当てています。確かに、美術史に照らした場合、彼女の作品に現時点で与えうる存在意義としてはそれが最もしっくり来る。しかしその言葉だけで彼女の作品を括ってしまうことは鑑賞者から鑑賞体験の豊かさを奪うことになる。
言葉は、諸刃の刃です。