東京都庭園美術館で開催されているクリスチャン・ボルタンスキー展。個々の作品についてはFacebookですでに説明しているので再度述べはしませんが、私自身の全体的な感想とボルタンスキーの言葉の引用を以下に記したいと思います。
極限まで切り詰めてあったのがやはり個人的につぼで…
私が研究していた劇作家で、現代アートの先駆者でもあったサミュエル・ベケットに "Imagination morte imaginez" という作品がありましたが、あれはきっと、想像力を発動させるための文章空間だったのだと思います。ボルタンスキーの作品も丁度そんなふうで、中学3年間 + 数か月のあいだ演劇に関わっていた私には、その中をさまようことで想像力を発動させることができる舞台装置のように感じられました。さらには、ベケット以前に私が思いを寄せていたアルベール・カミュも同じような系統で、言葉自体はもちろん選び抜いていると思うのですが、むしろ思考の実験場を組み立てることを重視しているかのような小説の作り方をします。
実は、ベケットについては上述の通りですが、カミュも元々は演劇に携わっていました。そして、ボルタンスキーも舞台芸術家と組んで作品を作った経験がある…。ひとたび舞台芸術に関わると、鑑賞しているものが能動的に自らの頭(+ ときに身体)を作動させることによって初めて完成する—鑑賞者の内で—ようなものを志向する思考回路ができるのかもしれません。
ボルタンスキーは実際、こう述べています :
「私にとって大事なのは、鑑賞者自身が、作品の中で役を演じることです。グランパレの展示では、寒さの中で歩くことで、鑑賞者自身も作品の一部になりました」。
この写真(動画を撮ったもの)のオリジナルであるアタカマ砂漠のインスタレーション『アニミタス』にしてもそうです。「重要なのは、砂漠のどこかに、何百もの鈴があって、それが風を受けて鳴り続けている、と知っている、ということなのです」と彼は語っています。つまり、鑑賞者が想像しなければ作品は存在しないも同然なのです。
そのことを彼は「私の作品は「神話」なのです」という言葉でまとめています。
さて、
神話に加え、彼は「神」的な多くのものに惹かれています。「美術作品はそもそも、儀式的・宗教的な形式」なのではないかと彼は言います。ただ、それでも美術は宗教とイコールではない。彼の言葉を借りるならば、その違いは以下のようになります :
「美術館は新しいカテドラルです。
でも、宗教との違いは、答えを求めないということで、それが重要なのです。誰にとっても、理解できない事柄があります。例えば、死はそのうちの大きな一つです。それは鍵のない扉のようなものです。それを開けるための良い鍵はない。でも、それぞれが鍵を作ろうとしている。人間であるということは、想像できないことに関して思いをはせるということです」。
ここで、「神」と「想像力」とが捩れた形でつながります。人が作る祈りの場には全知の神はいない、そこにおいてすべてを知ることは、ゆえに不可能だ、しかしだからこそ、描くことの「不可能」性に向かって想像力を発動させよう、と。
「誰もが鍵を作ったり、それが良い鍵だと思い込もうとしたりしている。私は、鍵とは存在しないと思いますが、重要なのはそれを探すことだ、と思っています。その問いを、開かれたままに投げかけること、それが、作品を作ることなのではないでしょうか」
非-知に向かって自らを開くこと
…ジョルジュ・バタイユ。
ここで私は、ああ、そうだ、と気づくのです。
私は、実は珍しい人間で、文学を研究していた身でありながら、文学に救われたことはなく、人を救うのは美術や音楽であって文学ではない、と、あるときまで信じていました。今でも、私自身に関する限りはそうです。
ただ、文学は長い時間をかけて人を作る。それについては私も例外ではありません。
私を作ってきたいくつもの書物の姿が、ボルタンスキーの『眼差し』に浮かぶ眼ひとつひとつの奥底から語りかけてくる気が、あの夕方、ふと、しました。